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◎脳を鍛えるお勤めのレッスン 〜ご一緒に、お正信偈・念仏和讃の お勤めの練習をしましょう!!〜
午後クラス 6月18日(木)午後14:00〜15:00
夜間クラス 6月11日(水)午後19:30〜20:30
※全席イス席です! 持ち物 赤い表紙のお勤めの本(無い方にはお貸しします) 定員15名 聴講料 無料 ※1「午後クラス」と「夜クラス」は同じ内容です。
※2 午後クラスのレッスン終了後引き続き 「『正信偈』の意味を知る会」 (15:20〜16:00まで) もございます。ご希望の方は、是非ご参加ください 。 (※昼のレッスンの後のみの開催となります)
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2006年度 特別講座「念仏の門に入る」 講義録 講師:櫻部建先生 |
第1回 2006年8月7日 1.まえおき ほとんどの皆さんには、初めてお目にかかることかと思います。桜部と申します。私は、もちろんここに初めて伺ったんですが、どういう皆さんがお集まりなのか、どういうことを求めていらっしゃる方々なのか、それがある程度自分にわかっておると、それに応じて自分もこういうことを申し上げたらということができるのですけど、今回は私、そういうことは全くわからないままでここへ来たのであります。 ここに刷り物(註1)にしてくださったのはね、今回ここへ来るようにと私にお話がありましたその後に、それではこんなことを申し上げたらどうかと思います、ということで、はがきに書いてこちらに差し上げたものです。それに対して、これで結構だとか、もうちょっとこういうことをとかいうようなご意向を、何も伺えなかったものですから、そのまま今日の日になってしまったわけです。最初のお話のときに『教行信証』を勉強してみたいというお言葉がちょっとあったんですね。そ。れで、『教行信証』という言葉を入れて、そんな文章を書きました。
2.仏教の言葉は難しいか ところで、大体、仏教の言葉は難しいと思っておる人が多いですな。仏教の用語は文字が難しいだけでなしに、その含む意味も微妙で、一遍くらい聞いただけじゃわからない、そういう気持ちをもっていらっしゃる方がずいぶん多いようです。文字の上っ面の意味だけわかっても、それでは本当のことはわからない。本当のことがわかるには深い思索や体験が必要である。まさに己れの生のすべてをあげて、体感するという程のことがなければ、わかるものではないんだ、という風にね、よく言われる。多くの人がそういう風に考えていらっしゃるように思います。けど私はそのようにばかり考えることはない、といった方がいいじゃないかと思っています。文字通り理解したらいい。その文字通りの理解は、ただ上っ面だけの理解で、底に潜んでいる本当の深い意味はわかっていない、という風に言われるかもしれないが、先ず文字通りの意味から入っていくんですからね。仏教の言葉はいかにも難しそうだけど、文字通りの意味の理解から入っていけば、それで必ずわかることになるんだ、心配することはないよ、と言いたいんです。 もうひとつね、仏教の言葉は難しいという感じをみんなに与えるのは、日本の仏典の言葉は漢字が多くて、それも随分難しい、普通あまり使わんような字が出てくるからと。これは特に若い方々はよく、感じなさるんですな。そりゃ無理はないと思うんです。戦後に行われた漢字の使用制限の施策があり、一方、社会生活の非常な変化の中で、漢字を読む力とか漢字の語感を感じ取る力とかいう面は、一般に以前に比して大きく後退しているといわねばなりますまい。そうすると、仏教語というものはほとんど全部漢字です。漢語、漢字でできていますからね、漢字を読み取るセンスが低くなれば、仏教語を読む、感じ取るセンスも低くなるということはやむを得ない。そういう点は確かに認めなきゃならんと思います。いま、そういうこともあって、仏教語は益々若い皆さんに縁遠いものになってきたんですな。けど実は漢字というものは、他の文字にはない独特な長所をもっておりますので、少し漢字を読むことに馴れてくると、他の言葉、文字、では代用できない力を漢字・漢語は発揮するんですな。仏教語も漢語でありますから、そういう力を持っています。 それには、何よりも親しむということですね。ここにおいでの皆さんは浄土真宗の門徒の人ばかりではないと思いますけれども、門徒のお家、浄土真宗のお寺の檀家の皆さんのお家では、現在「正信偈」「和讃」のお勤めが朝晩行なわれておるでしょうか。これが行われている家は近ごろ急に少なくなったと思いますね。私は今年八十一歳ですけれども、私の子ども時分には、私のところは幡豆郡の吉良ですけども、やっぱり真宗の門徒の人が割りに多い土地柄ですから、門徒の家々から日々お勤めの声が聞えるというのは珍しいことではなかったんですね。たいてい一日の仕事を終わって夕食前にお勤めすることが多かったと思いますが、「正信偈」「和讃」があげられてあちこちの家々からその声が洩れてきた。そういうことを、今でも懐かしく思い出すわけです。 何でそんなことを言ったとかというと、それが自然に仏教語に親しませたわけですよ。「正信偈」、「和讃」ってのはね、正信偈は漢字ばかり、和讃は仮名交じりではありますけども、難しい漢字がかなり出てきますね。それを毎日お勤めしててね、きちんと意味がわかってたかというと、そうではなく、ただ習慣としてお勤めやってきたっていう人がほとんどであったと思います。ところが、そのお勤めの習慣が自然に、お勤めをするわれわれに、おのずから仏教語のセンスを養っておったのですね。それは学校で習うものと違うんですよ。教室で先生に教えられて漢字を覚えるというのとは全く違った手続きで、仏教語が人々の心にいつも触れておったんですな。それが目に見えない大きな力を持って、仏教の理解をゆがめることが無かったように思います。 今は、文字そのものに対するセンスが大きく変わったということがあって、仏教語の理解も間違って変な風にとられていることが少なくない様な気がして、残念に思います。そして、それは仏教の教えをみんなに説くお寺さんたちがね、だんだんそうなってきましたね。みんな戦後の大学教育を受けて教育程度は平均して昔よりも遥かに上がったんだと思いますけれども、仏教語の理解の能力、仏教語の意味を感じ取るセンスというものは逆に歪んできた。何によって歪まされているかというと、一つには近代の学術語に影響され歪まされている所があります。たくさんの学問があります。様々な術語が若い頭脳に次々と注ぎ込まれています。その新しい学問の術語も、多く漢字で表されています。その新しい学問の術語になっておる漢語と、仏教語とは、同じ字を使っててもずいぶん意味の違うところがありますね。本来の仏教語のセンスで、すっと感じ取ることが若い人に出来なくなってきた。それは若い人の罪ということでは決してありません。時代の大きな変化の中でわれわれの文字を感じとるセンスに大きな影響が生じておることからきているから、ある程度止むをえない所もあるんですけどね。そのためにかえって仏教語が誤解されることもあるのです。 ごくごく卑近な例を一つだけ出しましょうか。「生」きるという字と「死」ぬという字を書いてね、これは仏教語では必ず「しょうじ」とよみます。普通は「せいし」と読みます。たいていの人は、その二字を見たら、「せいし」と読むでしょう。そんなのは読み方の違いだけと思われるかもしれないが、仏教語の「生死」と、普通の現代語の「生死」は同じ漢字を書いても、読み方が違うだけでなくて意味も違うんです。普通に「せいし」といえばね、「生き死に」という意味で、「生きること」と「死ぬこと」、或いは「生きていること」と「死んだこと」、そういう意味でしょ。 たとえば、山へ行って遭難した、「生死不明」だということが新聞に出ることがありますね。そのときは、「せいしふめい」と読んで、その場合の「生」は生きている、「死」は死んでいる。「せいしふめい」は「生きてるか死んでるかわからない」ということですね。ところがね、同じ「生きる」と「死ぬ」という二つの字を書いて「しょうじ」と読む仏教語では、その二つの文字の意味は、「生き死に」じゃなくて、「生まれ死に」なんですよ。同じ生という字を「生きる」と読むこともあれば、「生まれる」と読むこともあるということは、どなたもご存知でしょう。だから「生死」と書いても、「生き死に」だけじゃなくて、「生まれ死ぬ」を意味する場合も、あり得るということは、おわかりであると思います けれども、普通には「生まれ死ぬ」という意味では使わないで、「生き死に」の意味で使います。仏教語では逆に「しょうじ」と読んで、意味のほうも、「生まれることと死ぬこと」という意味で扱っている。「生きる」「死ぬ」という意味で「しょうじ」という言葉が遣われることは、仏典ではまず無い。そういうことがありますね。「生死」の問題といえば「生き死にの問題」ではなく、「生まれ死ぬ」という問題なんです。「生まれ死ぬ」というのは、「生まれること」と「死ぬこと」それ自体じゃなくて、生まれては死ぬ、また生まれては死ぬ、そのわれわれの生きざまを、「生死」という言葉で言い表して、それを問題にしているんですね。そういうニュアンスを仏教語の「生死」はもっておるのに、それがだんだん感じとられなくなったから、仏教語として出てきたその二つの文字をも、「せいし」と読んで、意味も「生き死に」というふうにとってしまう。これは一つの例として挙げました。 まあ、くどくなりましたからそんな話はこれで打ち切ります。 ただ言いたかった事はね、古くから使われている、その本来の意味を間違いなく理解しておれば、仏教語というのは何も特別難しいものでないし、それから仏教の教えも、何も特別難しい深遠な微妙なものであって少しくらい学んでみても容易にわかるものではない、というような無用な先入観を捨てることが出来る。
3.仏教の近代化は必要か 仏教の現代化がしきりに叫ばれます。仏教というのは古い教えだから、古臭いことばっかり言ってて、現代に通用しない。現代の人に通用するように理解し直さなきゃいかん。そういう声が世間一般にも強いし、仏教の教団の中にも強いですね。仏教の教団の中にいるお寺さん達もそういう気持ちを持ってる人が、少なくないと思います。仏教を正しく理解しようということと、仏教を近代的に、近代人として近代社会を生きていくのに役立つように、捉え直そうとするのとは、私には、二足の草鞋のようにみえます。私は、やっぱり近代社会にこうして生きておりますし、近代的な教育を受け、確かに近代人に違いない。だから三百年前の本願寺のお坊さんやら本願寺の門徒の人と今の私の考え方が必ずしも一致するとは思わないですけれども、ただ、本来の仏教が何を説くのかということをしっかり考えないといかんということを思うのです。仏教を現代化して、現代に役立つようにしないと駄目だとか、現代人に理解し易いようにしなきゃだめだということを、まず先立てようとは私は思わないんです。 仏教の基本的なものの考え方、すなわちお釈迦様以来今日まで二千年ですね。二千年の間受け継がれて来ている基本的な考え方、その基本的な考え方をなるべく過たずに受け継ぐということがなくては、仏教を近代化するといいながら、近代的なものの考え方によって仏教を歪めてしまうという危険の方が大きいといいたいんですね。
4.仏教のものの考え方の基本 基本的なものの考え方と、それを表現する術語、それを正しく理解すれば仏教は何もそう難解でないし、何もそうみんなが言うほど深遠不可解でもないのだと、私は確信しています。みなさんは、基本的な仏教のものの考え方を正しくとらえるように、気をつけていただきたい。基本的な考えかたといっても、色々受けとりようがあって一口にもいえないけれど、わかり易いんじゃないかと思うようなことをまず、一つ申しましょう。 皆さんにお尋ねするが、仏教で一番大事な観念は何でしょうか。というのはね、キリスト教で、根本的なのは神という観念だと思います。キリスト教の信仰というのは神への信仰ですよね。それにあたる仏教の基本的な観念というのは何ですか。キリスト教の中心的、基本的なものの考え方は、神、神の愛というところに集約されているとすれば、それと同じように仏教の基本的な考え方は何に集約されますか。 キリスト教で言う神様にあたるものは、仏教ではなんですか。仏様ですか。私はね、それは「法」だと考えたらいいと思います。法とは何か。まことの道理、ことわり、のり、すじみち、だと理解したらいい。じゃあ仏はどうなるか。キリスト教の神に当たるのは仏教では仏と考えるのが当然じゃないかと思われる方もあるかもしれないから、それで申すんですけれども、法と仏との関係、これはね、法をまことの道理といっていいならば、仏はね、まことの理が人間にはたらきかけるすがただ、といったらいいと思います。法は理だから、時・処を超えて普遍であり、本質的に寂然不動であると言えましょう。しかしその理は、常にわれらに向けて呼びかけているのだと知れ、と仏教は教えるのです。寂然不動な普遍の「法」が常に衆生の生に対してはたらきかけている態が「仏」と呼ばれるのです。 ですから、仏教では法こそが根源であると思います。仏と法がどっちが根源であるかといえば、法が根源である。それが仏教のものの考え方の基本です。それをしっかり理解しておくことがたいへん重要で、それを理解してないと、いろいろな教義の理解がみんな歪んでずれてしまいます。まことの道理というのは、ただ普遍妥当でそれ自体人間の生と関わりない全く中性的な真理というありかたにあるものだというふうには仏教では考えない。法は常に人間世界にはたらきかけているのです。 仏教と近代的なものの考え方とは共通、あるいは同じ線の上にあるように考えられることは確かにある。普遍の理というものは近代科学の真理の考え方と近いように思えるところがある。ただ全く違うのは、その理それ自体が我々の生きざまに呼びかけてはたらいている、とすること。これに気づくことが仏教だといってよいと思います。
5.いのち思想について もうひとつ、このごろ流行のいのちという言葉に関して、申したい。いのちの尊厳ということがよく言われますね。私は命の尊厳という言葉もその考え方も仏教に全くないと思います。おそらく日本語で、生命自体の尊厳ということが広く言い出されたのも近年だと思いますね。もとより、命が大事でないというのでない。おのれの命はみんないとしい、それは明らか。みな命は惜しい、かけ替えのない命は大切ですけれども、そのいのち自体が本来尊厳性をもっているとは、いったいどうして言えるか。 命が尊厳性をもっているという言い方はおそらく経典のどこにも無いと思うんですよ。仏教でもやっぱりいのちの尊厳ということを言うんじゃないかっていう人は、沢山ありますけど、それならどこに言ってるか示してくれというと、私に対してはっきり示してくれた人はいないですな。 殺生が戒められているのは確かでありますけれども、いのちは本来それ自体尊厳だから、尊厳性は冒してはならないから、というのが殺生をいましめる根拠として言われてるわけではないんですね。どっかに、いのちの尊厳性を冒すことが罪だということの根拠が挙げてないかと、古い仏典を探したことがあるんです。けれども、結局わたしがみたところでは、他の命を奪うことが罪だといわれているのはね、誰もみんな命が惜しいんだということです。命が惜しくないものは一人もいない。それは人間に限らず、あらゆる生き物はみな、いのちが惜しい、いのちがいとおしい。このいとおしい、そしてたった一つしかない、いのちをもって生きている。そのいとおしい、たった一つの命を奪うことは罪の深い悪いことじゃないかと、こういうのです。お経を引きましょう。 すべてのものは、死を怖れる。生はいとおしい。おのれに引き比べて見て、他を殺すことなかれ。 (ダンマパダ一二九・一三〇)
かれらは私と同じ(生き物)である、私もかれらと同じ生き物である、と考えて、他を殺すことなかれ。殺さしめることなかれ。 (スッタニパータ七〇五)
生き物は皆しあわせを求めている。それを客してわが愉しみを得ようとする者がこの先しあわせを得ることはない。 (ウダ―ナU3) 仏教のまことの道理を考える基本は、縁起という考え方です。全てのものが、原因から結果として生まれて、その結果が又原因になって次の結果を生む。それが縁起ということです。ただ注意していただきたいのは一つの原因から一つの結果が生まれるということが繰り返されるということではない、ということです。何事も様々な原因が働いて結果として生ずる。それがまた原因となって、他の様々な原因とともに、次の様々な結果を生んでいく、そういう連鎖を考えるのが縁起という考えであって、仏教はそういう縁起的な考え方を基本的な道理として考えてるわけです。 その縁起という考え方と対比されるのが、一因説や無因説だ、ということが古い経典の一つに言ってあります。縁起説ということは一因説及び無因説に対する。仏教は一因説でもなければ無因説でもなくて、縁起説であるんだということです。一因説とはただ一つの原因から全てが生ずるという考え方ですね。これはすべての一番根源となる根本的な原因がどこかにあって、その因から全てのものが生ずるという考え方です。極めてわかり易い例は神様が天地万物をお作りなった、全ての、もののいのちをもお作りになった、と神を根源的な原因にして考える。そういうのが一因説ですね。無因説というのは、別段原因というものはなくて、物事はすべて偶然にアットランダムに起こってくるので、因果というプロセスを考える必要は無い、と考える。これが無因説ですね。仏教は一因説も無因説もとらない。 いのちの根源というべきものがあって、すなわち根源的な生命という尊厳体がどこかにあって、そこからいのちが起こってくる。個々のいのちの一番元に人間のいのちを超えた大きな生命があって、いまの現在の生命が終わったら、大きな命に帰っていくという考え方。これも一因説ですね。仏教の取らない所です。 生命というものも縁起的に生まれ死にする縁起的な関係の連鎖の中に認められる現象に過ぎないのに、命に尊厳性や不滅性を考えよう、考えようとするのは、やはり、われわれが迷いの生を生きているからなのでしょう。生きてることは、すなわち迷いだと仏教はいうのです。生命を持って生きているということは、迷い続けていること。縁起的に、様々な原因が結果を生み、また様々な原因がまた結果を生み、というなかでいのちの現象が営まれている。眞のいのちは尊厳で、われわれの迷いの生のいとなみに関わりない、と考える考え方は、仏教にないと思う。 迷いというと、なんか心がしっかりしていないことで、心がしっかりしていれば迷いはない、というようにわれわれは考え易いが、生きてること自体がすなわち迷いだと知れ、というのが、仏教の考え方です。その迷いの反対は覚りだが、覚りにいたるのが仏教の目的でない。それはむしろ結果というべきです。迷いを離れるのが目的。そしてその結果が覚り。迷いを離れるということは、生きることを離れることになります、生きていること自体が迷いですから。生きている限り迷いを離れられない。それが人間だと知れよ、と仏教は教えている。覚りを開いたら、今まで人間だったのが、もう人間でなくなるというのはおかしいじゃないか、お釈迦様は覚りを開いてからも、やっぱり人間じゃないかというのは当然のように思われますけれども、仏典をよく読みますと、迷いを離れるっていうことはすなわち、このいのちを離れ、この生きざまを超えること、といえましょう。生きていることが迷いなのだから、迷いを離れるということは、この生きざまを超える、生死を超えるということなんですね。だから、お釈迦さまは覚りを開いて迷いを離れたんだから、生きてはいらっしゃるけど、もうお釈迦様は人間ではないんです。ただの人間ではないといったほうが解かり易いかな。お釈迦さまも歳をとってやっぱり体が難儀になったらしく、お悩みになったらしく、愚痴みたいなことをおっしゃったようにお経にでてきます。極めて人間的で、現代人が読めば、ああ、お釈迦でもやっぱりそうだったかと共感するかもしれない。けど、しかしそれだけではないんですね、お経に説いてるのは。多くの近代の学者たちは考える―釈迦牟尼は一人の人間であった。人間であった釈迦牟尼は人生の問題を感じて出家修行して、そして覚りを開いた。覚りを開いてからも釈迦牟尼は、やはり同じ人間で、ただ迷いを離れて覚りをひらかれたというだけだ、と。仏に成られてからは、も早人間でないということは、近代の学者にとって考えにくいから、そこで釈尊は覚りを開かれても、当然、同じ人間としてあったという風に理解される。しかし、それは現代の学者の想念、考え、思いであって経典の説くところではないということを、ヨーロッパの学者の一人が言っています。ドゥ・ヨングさんという、つい近頃亡くなられた方ですけれどね。私はそれにほんとに共感します。そのとおりだなと思います。実際に経典を読めばね、そういうことが知らしめられます。つまり、仏教は、修行によってはっきり「生を超える」ことを教えている。生を超えるということは、死んでしまえ、ということでないのは、もうおわかりでしょう。ただ人間が迷いを離れたらぱっと覚って仏様、なのでしょうか。生きている限り迷っているから生死の凡夫っていうんですなあ。それは浄土教だけ、真宗のようなお念仏の宗旨だけがそういうことを言ってるのだと、世間ではいいます。浄土門でだけ凡夫ということをいうので、聖道門ではそうでないんだ。この世で覚りを開くということを目指して修行するんだ。そう言いますけどね、教説をよく読んでみれば、覚りをひらくとは、凡夫、人間、としての生きざま、を超えるということです。それに気がつかないで、生命の尊厳などということにあまりとらわれると、仏教でないことになってしまう、と思うのです。
※註1 【開講にあたって】 わがこの世の生きざまが、愚かであさましいものと気づくのが出発点。 そして、おしえ(「教」)を受けて、わが身におこなうこと(「行」)が、わが心にはうやまい・よろこび(それがすなわち「信」)となる。 その道理は、わがこの世の生きざまを超えた大きな力のはたらきである。(「証」)
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